子供を育てるには、まず親から

2022年09月21日 こころ院長ブログ

子供を育てるのに、親が育たずしてなんとする。

子供の教育について、不平等、不公平を唱える前に、親は努力をしているだろうか。

どこまで努力しているだろうか?

子供の能力差に、遺伝の要因は、本当にそれほど強いのだろうか?

残念な2世、3世はごまんといる。

つまり、優秀とされる親の子供が優秀であるとはかぎらない。

昭和の時代から、貧しい環境、劣悪な環境、悲惨な環境から、一代で事業を成功させたり、巨万の富を築いたり、偉大な功績を遺したりする偉人もいっぱいいる。

つまり、遺伝や環境だけで、子供の能力、将来が決まるわけではない。

それを切り開く子供の胆力と親の力が影響しているのではないか?

子供の胆力は、子供の個性によるものなので、いかんともしがたいが、親の方は、大人が頑張ればいいだけの話。

親がしっかり勉強する、それをわが子に手間暇、時間と労力と愛情をもってかけてあげれば、子供の能力を最大限に引き上げられる可能性がある。

それを怠っていないだろうか?

自分は運動が苦手だから、学が無いから、時間が無いから、お金が無いから、自身が無いから、面倒くさいから、どうせ無駄だから・・・、色々な言い訳を自分にして、結局子供と向き合っていないのではないか?

別に、優秀と言われなくたって、幸せに暮らせてい来たらそれでいい。親ならそう思うかもしれない。子供は本当にそう思っているだろうか?自分が面倒なことを、其れっぽく言って避けているだけではないか?逃げているだけではないか?

子供が本当に自分の意思で、このように生きたい、こんな風に生きていきたいと、考えられているだろうか?選択できているだろうか?

英才教育と称して、親が望む方向に誘導していないだろうか?

子供が抗んなことしたいと将来想ったときに、実力が、学歴が、能力が。。。。何かが足りないので、思ったときにはすでに間に合わない位遅れを取っている、なんてことにならないだろうか?

義務教育はいわば子供の仕事、将来何をしていくにせよ、義務として民意付けておくべき知識、教育。ならば、別に一番を取らなくてもいいけど、一番を根うくらいの気持ちで真摯に取り組んでいいんじゃないだろうか?

子供は、必ずしも生まれてきたいと思って生まれてきているわけではないかもしれない、けれど、親は、望んでにしろ、できちゃったにしろ、子供が生まれてくる可能性を知っていて、狙って、うっかりかもしれない、それでも子供を授かる可能性がある原因を自身で作っているのだから、親子関係の形成は10-0で、親の責任。だったら、文句は言ってもいいが全力で子供の世話をしなければならないでしょ。愛情を100%注いであげないと。

学校に通おうが、不登校だろうが、自宅学習だろうが、家庭教師だろうが、塾通いだろうが、学べればそれでいいんじゃないだろうか?

親が、子供の状況に合わせて、どうしてあげたら、どうサポートしてあげれば、どう協力すれば、子供たちを中学卒今日時点で最低限度の選択ができるスタートラインに立たせてあげられるかを考えて行動してあげればいいんじゃないかな?

それができているかな?親も人間。疲れるし、面倒くさいし、自分が大事だし、つらい、楽しみたい、眠い、忙しい、色々な都合があるかもしれない。その中でも、やらなければならないこと、大事なこととして、子供の事を思う、子供と向き合う、そんな時間と労力を十分にとってあげることが大事なのではないか?

日本では、なかなか、教科書が手に入らない、学校に通えない、というケースは少ない。教育を受ける場は、義務教育として、親に受けさせる義務が課され、平等に与えられている。そこから先、さらにどのように勉強するかは、各家庭の方針で個性が出る。が少なくとも必要最小限度の教育の機会は平等に与えられている。非常にめぐ慣れた国だと思う。そのなかで、勉強ができる子、できない子が生まれてしまうのは、個性、多様性だら、仕方ない。勉強ができる子の個性も大事にしてあげるべき。最近は、そういう子たちがなんだか、勉強しかできない子、勉強はできる子、みたいにさげすまれているようなことが時々ある気がする。勉強ができていいじゃない。スポーツや音楽、ダンスができること比べて、なにか劣っている?おんなじでしょ。

東大を出て官僚になる、研究者になる子とダンススクールを出てブロードウェイを目指してダンサーになる子。おんなじでしょ。

義務教育以降の勉強が凄くできるようになった子、体育のサッカー以降すごくできるようになってプロサッカー選手になった子。同じことでしょ?

昨今の多様性、平等性は、ちょっと、一部の視点からの多様性を認めろ、平等にしろという意見に偏っており、本当の意味で多様性を認める、平等を目指す視点とずれている気がする。

多様性を認める、平等を目指すことは、今まで強とされてきた人たちを貶めるのではなく、強をされてきた人たちも同等に、平等に認めるという事。一部のフェミニストなどにみられる男は今までえらそうにしてきたんだから、これくらいされて当然、言われて当然、なんて言動はもってのほか。男たちの歴史は関係なく、これからは、男も女も平等に、対等にその権利と義務を認めていく、そういう考え方で行かないと、決して平等にはならない。男女の地位が逆転していくだけ。

・・・・。

何の話をしていたんだっけ?

話がずれずれになってしまったけど、弱いもの、虐げられていたものが声上げることができるようになった、これはいいことだと思う。それが、逆に、多数支持を得て、もしくは、弱いものや小宗派に対する批判や反対意見を言うこと自体をタブー化するような風潮で反論を許さない、反対の言動を社会で抑圧しようとするならば、それはそれで、立場が逆転しただけの、多様性や平等を認めない世界にループするだけなのかもしれない。

そこらへんは十分に話し合いなどをして解決しなければならないところだが、おそらくどちらのサイドも、自陣の意見を通したい、と強く思うような案件の場合、どちらも、譲歩しない姿勢ならば、永遠に解決しない、もしくは、無理にどちらかの方向に舵を切れば結局、不満が爆発することになる。

人間も国も、どちらも、自分たちの意見、権益を譲ることが無ければ、永遠に分かり合えないのかもしれない。

戦争は、争いは、本当になくすことができるのかな?かなり難しい気がしますね。

人の心を救ってくれるべき宗教でさえ、多宗派、異教徒同士での争いの歴史が数多くありましたし。

日本人、日本国の持つ、侍・大和撫子のこころ、和の心、寛容の心、謙遜の所作、あいまいさを良しとする心、自己犠牲の精神、侍・大和撫子のこころ、こそが、実は世界平和の重要なピースの一つなんじゃないかな?

到底、諸外国には、受け入れてもらえないしそうな気がしますけど。最近じゃぁ、日本人でも少なくなってきているような気がしますしね。

日本は、外国文化にかぶれることなく、日本らしくあるべき、そうあってほしい、その方が魅力的だ、と思うけどな。

上記はすべて私見ですので、ご理解ください。