いじめはなかなかなくならない

2022年09月02日 こころ院長ブログ

いじめは、なかなかなくならない。

だって、国同士でもやってるじゃない。

大国が、小国を侵略したり、隣国の国土を勝手に自分の国と主張して占拠したり、歴史的な解釈を独自に主張してみたり・・・・。

子供たちがしないわけがないじゃない。

めだかの学校でもいじめは、おこるという。いじめっこを、いじめられっ子を排除しても、また別のいじめが起こるらしい。

いじめの根本は何なのか?

人は、自分を守りたい、自分を不安から守りたい、自分の安全を確保したい、誰かの上に立ちたい、誰かを下に置きたい、自分より不幸な人がいると安心する、誰かに対して優越感を得たい、マウントを取りたい、自分よりできる人や幸せそうな人・恵まれている人を貶めたい、自分は楽をして儲かりたい、自分の置かれている環境・状況に不満でそれを誰かにぶつけて発散したい、なにかのせいに人のせいにしたい、自分が恵まれていないので誰かを巻き込みたい、引きずりおろしたい、自分の主張を何でも通したい、好き勝手したい・・・・いろいろな負の感情や思考がベースとなる。

どんな不幸な、不運な理由があるにせよ、関係のない人を巻きこみ危害を加える行為は、いじめであれ、犯罪であれ、同情の余地はない。許されない。

いじめの問題は、もっと真剣に取り組むべき。未来ある子供たちに限らず、大人たちでも、不当にいじめを受けることが無いように。

いじめは、厳罰に処するべき。いじめ、なんて軽い言葉にするから、反省しない、繰り返す。ちゃんと、厳罰に処するべき。

いじめは、いじめられる側が保護されるのではなく、いじめる側が隔離されるべき。

いじめ=退学、停学、謹慎、解雇 ⇒ しかるべき教育施設での更生や処罰を受けるべき。

いじめ=ハラスメントであり、いじめの処罰する内容を明確に法律化すべき。

故意に集団で無視をし続ける

嘘の情報で故意に個人の尊厳を貶める、評判を下げる、風評被害を受けさせる

SNSやネットを使った誹謗中傷、画像や動画、音声録画がを使った個人の尊厳や人権の侵害

肉体的な暴力行為

精神的な暴力行為

金銭の搾取

個人の所有財産に対する物損

・・・などなど

上記に上げただけでも、いじめなんて言いながらも、名誉棄損、器物破損、財産・人権侵害、傷害、などなど罪に問われるでしょ?

いじめをしたぐらいでは、罰せられない、逮捕されない、そんな軽い気持ちが、子供たちの中、大人たちの中にでさえあるのではないでしょうか?ちゃんとした犯罪であると、定義したほうがいい。人の命を、健康を脅かすものであるのだから。肉体的なダメージは、物によっては治癒します。でも、精神的なダメージは、一生残り続ける可能性があります。それだけの加害をしておいて、罪でないはずがない。人を故意に傷つけてはいけない。そんなことをしっかり教えられなくて、何が教育だ。

いじめの認識も変えた方がいい。

いじめがあると、学校や教員が非難される、風評被害を受ける。

教員は、関与してなかったとしたら、いじめをしているのは、当人同士。学校や学校の先生がどうこうでいじめが起こっているわけではない。

いじめをした生徒がいる⇒学校は、先生は何をやっているんだ⇒どういう教育をしているんだ、何で気が付かないんだ⇒責任は学校にある、先生にある⇒謝罪しろ⇒誤って住むと思うな⇒ネットで、TVで繰り返し謝罪会見の報道⇒先生、学校憔悴⇒恐怖⇒隠ぺいしようとする

いじめを起こしているのは、まずは当事者。責められるべきは、当事者。

学校だって、先生だって、いつも気が付けるわけではない。だいたい、ばれないように巧妙にするのがいじめ。なかなか気が付けない。加害者は、自分の身を守るのが得意。周辺などに情報操作したり根回しをしたり、万が一、被害者が訴え出ても、訴え出た方がおかしい人である、というように認識されるような情報操作をすることさえある。余程注意深く、興味をもって、情報収集して、傾聴しないと、第3者は、気が付けない可能性もある。私自身も被害経験があるからこそ、分かります。

もちろん、いじめられたら、先生に、学校に言えば解決してくれる、すぐ相談しようと思える状態なら、白昼にさらされることにある。

だとしたら、学校・先生も守ってあげなきゃ。

いじめを見つけたら、むしろ、よくやった、いい学校だ、よく見ている先生だね、とほめてあげられるような世の中にしないと。

だって、いじめは、おこっちゃうんだもの。隠れてやっているのだもの。

それを見つけた、相談を受けた、それを白昼にさらし、加害者を見つけて、しかるべき更生教育を受けさせるために休学・退学させて、まっとうな道に戻してあげることができたなら、いじめられた方も救われる、いじめた方も結局救われる。

いじめがあることが学校のマイナス、先生のマイナスではなく、いじめが無いことはよい、あったとしても見つけて解決できる先生・学校は、プラスの評価を受けるような環境にすれば、学校も・先生も積極的にいじめの対応をしてくれるんじゃないかな?一人でも、理解者、相談に乗ってくれる人がいるだけでも、被害者の心情は大きく変わります。ですが、その最後の一人が頼れない、と感じた時、いよいよ絶望してしまう可能性が出てきます。

今の世の中、いじめの対応をしようとすれば、いじめがあった学級の先生、学校とレッテルを張られ、生きにくい生活を強いられるようになる。先生も校長などから怒られ、責められ、学校も教育委員会やメディアからたたかれたりするのだろう。それじゃぁ、なるべく、いじめじゃなくて・・・と、認めたがらなくなってしまう可能性があるのでは?いじめが起こっていたら負け?ではないでしょ。起こってしまっていて、その結果、被害者が苦しんでしまっている、苦しみ続けている、不幸な結果になってしまっている、そういうことが負けなんじゃないのかな。勝ち負けではないのだけれども。

あとは、差別やハラスメントの時と同じで、過剰ないじめ廃止運動は、別な被害者を生む可能性があるということも肝に銘じる必要がある。逆いじめというべきか。なんでもかんでも、いじめいじめと称して、いじめであると主張することで、相手の言動を封じ込めて自分の優位に立とうとする行動が起こりうることも考えておかないといけない。

今まで、力を持っていたもの、加害をしていたものとされる側に立ってしまった人を、逆に追い込むようなことが無いように。

先生が、様々な親の中の一部から、いろいろ苦情を言われることで、言うべきことを言えない、𠮟るべきところを𠮟れない、そんな状況にされている例があると聞く。いじめ問題も、いじめが無くなること、あってもすぐにその芽を摘めることが大事であるが、過剰すぎる対応は、いじめになることを恐れすぎて、結局、だれにも、何も話さない、しない、関わらない、というような閉鎖的な社会にしてはいけない。人が生きていく上では、人と人がかかわって、どういう事で喜ぶのか、うまくいくのか、どういう事で失敗するのか、傷つけるのかも学んでいかないといけないのだから。

現在、個性を大事に、自分の権利を大事に、自分を主張して、みたいなことが強く主張され、意識されているような気がする。以前は、和をもっと重要視していた。他人と違っていい、それはそう。自分は自分、他の人と合わせることなんてない。そういう面もある。だけど、他人に合わせることも大事。じゃないと社会が上手くいかない。自分は自分、相手も相手で自分は自分。そうしたら、まじりあえるところが無い。それぞれ好き勝手していたら、社会が回らない。穴だらけになってしまう。自分は自分をはき違えないように。自分とは、自分の中での価値観はこういうもので、それは、他の人と比べたり、調整したり、しない。でも、それは内に秘めておいても、周りを合わせるところは合わせる。やだなと思うkとも、やらなければならないことはやるの。やだから、やらないは、ただのわがまま。人がやりたがらない、大変なこと、面倒なこと、つらいことこそ、積極的に自分からやりに行くくらいの想いが必要でしょ。