あだ名を禁止することはあまり意味が無い

2022年08月22日 こころ院長ブログ

あだ名を禁止する学校が出てきているとの事ですが、あまり意味が無いことのように思えます。

あだ名は、身体的特徴や出来事などから付けられ、いじめに発展する恐れがあるので、それだけではいじめが無くならないが、抑制することが考えられる、滴な発想だそうです。

私見ですが、無意味だと思います。

あだ名は、必ずしも悪くなく、親愛の意味も込めて付けられることも多いと思います。

あだ名がついたからいじめが起こるわけではない。

おそらくは、いじめの芽は先にある、だから変なあだ名がつく、いじめが露見しやすくなる。だから、あだ名がいじめの原因になっていると思ってしまうのではないだろうか。

あだ名を辞めたところでいじめはきっと減らない。

あだ名を使ったいじめがなくなるだけ、もしくは先生の目の届かないところであだ名をつけて行われるだけ。

あだ名をつけることを禁止することは、コンビニが24時間営業していると、夜に不良たちがたむろして治安が悪くなるから、コンビニは午後8時に閉店するようにします。これで、コンビニは暗くなるから、不良たちがたまらなくなり治安が良くなります。全部ではないけど少しは治安が良くなります、というっていることに近い。本当にそうだろうか?コンビニが閉店したら、不良たちは、じゃぁ仕方ないから、かえって風呂入って、勉強して寝るかな、8時に解散だ、ってなるだろうか。否。コンビニが閉まったなら、街灯がついている講演にでも移動するか、とか別な場所に移動するだけであろう。見かけ上、コンビニの前は治安が良くなった、その代わりに公園の治安が悪くなった。学校の先生からはコンビニの前しか見えなかったら、問題が一見解決したように見える。が、結果としては、問題の場所が移っただけ。

あだ名も同様なのでは?あだ名での言葉でのいじめが無くなる→だからいじめを辞めようとはならい。あだ名がダメなら、名前を呼ぶのを辞めよう、とか、無視しようとか、他の言葉で罵倒しようとか、別な形で屈辱を与えようとか、暴力に変えようとか、金銭を要求しようとか、別な形のいじめに発展するかもしれない。もしかしたら、まだ、あだ名でいじめられる方が楽だったかもしれない結末になることもあるかもしれない。単純な臭い物に蓋をする、汚れているところだけを隠してしまう、小手先の政策は、あまり意味をなさないのではないかと思う。

いじめ問題は、何かを禁止する事では絶対に解決しない。いじめの問題は心だから。いじめるという事の愚かさ、むなしさ、恥ずかしさ、くだらなさ、卑劣さ、人としての品位の無さ、そういったことを理解させて、根本的にいじめをすると言事を発送させないような教育方法を考えなければいけない。それは、とても難しいこと、骨の折れること、時間のかかることかもしれない。それでも、教育現場では、逃げずにそれをやってもいただかなければならない。いじめにおいては、すべてのいじめられる側が全く問題が無いとは言わない。しかし、概ね、いじめる側の心に問題がある。だからこそ、いじめる側の子供たちの心を再教育する必要がある。いじめられる子供が転向させられたり、学校に行けなくなるのは、間違っている。いじめた側をむしろしっかりした心の教育プログラム、もしくは心の治療プログラムに乗せる必要があるのではないかな。

ちなみに、ランドセル問題も、ランドセルに罪はない。とても丈夫で、スタイリッシュで、機能的な鞄だと思う。確かに、別に全員矯正である必要はない。が、批判されるいわれもない。問題をすり替えないように。問題は、小学生の荷物が重いこと。解決方法は簡単、さっさと教科書を電子媒体にしてしまう事、紙の教科書をなくすこと、紙の教科書は学校において帰ることにすること、宿題などは電子媒体で出すか、プリントにすればいい。ランドセルを辞めるかどうかの議論は、荷物が重いこととは別の問題である。ランドセルをしょっていること小学生だから、社会で暖かく見守っていこう、という地域社会のマークとしても役立っていると思うけどな。小学校のカバンくらい、みんなおんなじでもいいのでは?あの子はランドセル、あの子はリュック、あの子はグッチやプラダのバッグ、なんて子供の通学カバンに格差が見えたりしない方がいいのでは?そこに違いが出ると、またいじめのターゲットになる要素が一つ増えたりするような気もする。