2022年08月22日 こころ院長ブログ
アメリカ教育省は「ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、突出した知性と精神性を兼ね備えた子供のことである。」と1993年に定義している。
とあります。
最近、メディアでよく話されている内容です。
決して発達障害などの有無とは、関係ないようです。
この才能をつぶさないように、専門教育や専門の学校に分けて教育したほうがいい、欧米がそうしているように、との意見が最近、メディアでは主流なように見えます。
私は、この思想に、やや不安を抱きます。
ギフテッド、という言葉にも少し不安を抱きます。ギフテッドとされる人たちが同行という話ではなく、そう呼び、区別することに、準備はちゃんと整っているのか?そう呼ぶのがいいのか?別なネーミングの方がいいのではないか?分けて教育するとしたら、そのタイミングと指導方法は、欧米の真似するだけでいいのか?
神から才能を与えられし者、というイメージを少し受けます。そして、他の子よりも優れている?から、別な教育を、ひいては、その才能を伸ばして社会でトップアスリートして、優秀な科学者として、起業家として、タレントとして・・・、活躍していく。国の未来を考えると、優秀な人材が育つことはとてもいいことのように思えます。
ですが、この一部のギフテッドと言われる人たちが、いわゆる”ギフトをうけなかった人たち”と、異なる教育を受け、国を世界を引っ張る存在になるとしたら、個々から新たな差別や格差が生まれるのでは?という懸念が生まれます。
ギフトを受けたもの>>ギフトを受けざる者、という優性思想に発展しないだろうか。見た目の醜悪、学歴での格差に、いいままで散々、不平不満を言っていたのに、才能?の有無での格差が生まれることには、積極的に推し進める形でいいのか。
特別な秀でた、目立った能力はないが、平均的にものをこなせる能力もギフトではないだろうか。人と和をもって交流できる能力もギフトではないのだろうか。
そもそも周囲の人が見つけたギフトと呼ばれる才能を、当の本人が好んで伸ばしたいと思っているのかどうか、どうやって確認するのか。幼き子供を、周りの大人が才能があると決めつけて、その道に引き込んでしまう事で、本来その子が好きなこと、好きになるであろうことの芽を摘んでしまわないのだろうか。周りが勝手に、その才能で今後の自分たちの生活が良くなるように活躍してほしいという思いを勝手に押し付けていいのだろうか。
このギフテッドという言葉に、そう呼ばれる側の人に肩入れをして、そう呼ばれない人々は劣っているのだ、という僅かでも深層心理は働いていないだろうか。いわゆるエリートと呼ば体た人とそうでない人、と似たような優劣感が生まれてこないだろうか。
そもそも才能って何なんだろうか。才能が与えられたか否かは、誰が判断するのだろうか。めぐり合う人、事柄、タイミングなどで、才能と呼ばれるものが開花するかどうかは、変わらないのだろうか。本当に、その子本人の持って生まれた資質だけを才能と呼ぶのだろうか?才能あるものが、才能亡き者の上に立って支配してもいいのだろうか。かわいそうだ、かわいそうでない、もったいない、わかんない・・・・、あいまいな感情や思想で、判断していないだろうか。
世界の大谷選手は、ギフテッドなのだろうか?本人の人一倍の努力と鍛錬、野球に対する・生き方に対する信念や想い、考え方と野球に対する感情や想い、友人や恩師・チームとのめぐりあわせとタイミング、運・・・、色々なものが合わさって、今の世界No1と言っていい野球選手になっているのではないだろうか?もしそれをギフテッドとして、専門の学校や指導により教育したとして、今と同じもしくは今以上の選手になっていたのだろうか?
出る杭を打ってしまうような教育には反対である。伸びる子は伸びたらいい。だから、色々な技能に対する専門性の高い学校などがあり、単純に近所の小中学校に通うだけでなく、選択でそういった学校で義務教育もいけながら専門的なことを伸ばすのもいいだろう。
だが、社会で他人とうまくやれないような、他人の気持ちを慮れないような、それがもし教育を受けなかったことで起こるようなことがあれば、よくないんじゃないかな。才能があるワンマン社長が何兆円稼ぐ会社を作ろうが、その会社でパワハラなどが横行するブラック企業であり、従業員が被害を受けるようなことがあったり、他の会社をぶっ潰して、自社以外のすべてを壊すような、支配するような形の経営をするような、自然を破壊しまくるような、文化をぶち壊すような、抜け道使って税金逃ればっかりすることで会社の富を築くような、そんな才能を発揮することを良しとしていいのだろうか。
私にはいわゆるギフトなんてない。ただのパンピーですが、それでも社会の為に、日本の為に、微力ながら精一杯努めています。
心無き・新年なき才能は、戦争のような災いのもとになる可能性もある。優れた才能があっても人を見下さないような、その才能を地球全体の為、国の為、他者の為に十分に生かせるような、そんな心の教育こそ、能力開発の前にすべきことなんじゃないかな。
万が一にでも、誰よりも優秀な悪が生まれた時、だれがその人を抑えられるだろうか。
諸葛亮孔明がもし大悪党だったら、誰が、止めることができたであろうか。
脱線したが、ギフテッドという思想については、もう少し、ネーミングからも慎重に、配慮しながら、政策を考えた方がいいのではないだろうか?
何かしらの才能がある、それは、一人一人全員持っているものではないのか?それが、見つかった、目立ったものであるか否か、分かり易いか、分かりにくいかだけの違いではないのか?
そもそも、才能って、そんなに躍起になって、早くから育てないとダメなものなんだろうか?芸術しかり、野球しかり、学問しかり、専門性のもの以外のものに脱線して、経験して、そこから得られる知識や見方、経験が、専門的なことに活用されて、さらなる発見や改良がくわえられることはよくある。専門バカ、あえて聞こえの悪い言葉を使いましたが、になってしまうと、視野が狭くなり、其れしかできなくなる、その世界の常識から抜けられなくなり、俯瞰してみることができなくなるかもしれない。本当に才能があるなら、一般教育を受けた後でもぐんぐんその才能は花開くんじゃないかな?
全然違うかもしれないけど、三国志の趣味レーションゲームがある。昔からある。その中の武将たちは、知力に秀でたもの、政治力に秀でたもの、カリスマ性に秀でたもの、武力に秀でたもの、色々な才能と個性を持った武将がいる。この時、他国をっ侵略するにあたり、当然武力が高い武将を多用して攻めると考えがちである。武力が、腕っぷしが強ければ、ごり押しで勝てる。そう考えがちである。しかし、知力の高い武将に計略ではめられ、多大な兵力の損害を受けたり、敗北を喫したりする。だったら、知力の高い武将で攻めれば、となるが、そうなると、計略を張っている間に、ごり押しで敗北を喫することもある。結局のところ、知力と武力と両方の才能が合わさって、協力することで確実な勝利を導ける。才能開花させるにあたり、大事なことは、専門性にのみとらわれないこと。柔軟性が必要であるという事。武力と共に知力を、知力と共に武力を、極限まで高められれば最高だが、そうはいかない。それでも、計略にバンバンはまったり、ごり押しですぐに押し切られるような、しょんぼり武力やしょんぼり知力ではなく、そこそこの修練をそれぞれが受けている方が、その専門性をいかんなく発揮しやすいという事。更に言うと、専門性は多岐にわたり、上には上がいるということを受け入れられる許容力、包容力と、自分にはない力のある人の助言や協力を乞うことができる謙虚さ、受け入れられる度量、そこから自分を磨き上げる意気込み・胆力などを持てているかどうか。人間社会で他社と生きるためのすべ、そういったことをいわゆるギフテッド教育でちゃんと行っていけるのか、その方法論を議論できているのか、そこが大事。
才能が開花しても、周りとうまくいかずにその才能を発揮できる場がなければ、才能は無いに等しい。使ってこその才能。臥竜、鳳雛のままでは、あまり意味はない。乱世に羽ばたいてこその才能である、と思う。
才能と言わずに個性と呼んだ方が、いいのではないだろうか。才能と呼ばれている能力も、単なる多様性の一部、ととらえる方がいいのではないだろうか。
なんて、考えたりしました。
特段、ギフテッド、政策、他者の見解に対しての誹謗や中傷、差別、非難などではなく、単なる私見です。欧米でやっていること=いいこと、先進的なことであり、日本は遅れている、間違っている、追随すべきだ、という事ではないんじゃないかな、日本は日本で、今まで、有能な人材を育成してきたじゃないか。だからこそ、行動経済成長もあったのではないか?文化が違う。日本には日本のやり方を独自に行っていく、そういったことがあっていいんじゃないかな?欧米の文化や思想が強く入ってきたからこそ、日本の和、という日本のいいところも崩れてきているんじゃないかと感じる。個人主義、権利主義、みたいなのもたいがいにしておいた方がいいのでは?
お金を稼ぐこと、巨万の富を得ることがいいこと、幸せのすべてではない。足るを知ることで、幸せは意外と簡単に手に入るかもしれない。