自分の評価は自分ともう一人、それでいい

2022年08月07日 こころ院長ブログ

身の回りの社会で、自分は、どうすればいいのか?どうすべきなのか?

その答えは至極簡単。

相手の気持ちになればいい。

自分が部下だったらどんな上司がいいと思うかな、自分が後輩だったらどんな先輩がいいかな、自分が取引先ならどんな営業がいいかな、自分が同僚だったらどんな同僚がいいかな、自分が子供だったらどんな親がいいかな、その逆もしかり。。。。

相手の気持ちになってみて、それがまっとうな願い、想いであれば、それに近づければいい。

まっとうな願い?とは、例えば、仕事をしなくても見逃してくれる、なんでも自分の仕事を代わりにやってくれる、自分の言うことを何でも聞いてくれる、お小遣い無限にくれる、勉強しなくても掘っといてくれる、叱らない・・・・などなど、明らかな誤りの願望については、かなえる必要はない。むしろかねてはダメ。

ミスをカバーしてくれて、指導してくれて、かつもう一度チャンスをくれて、その際、気にかけてくれていて、でも仕事を任せてくれていて、困ったときは相談に乗ってくれて、聞いたらなんでも知っていて教えてくれて・・・・。とか。

自分が正しいと思うことをしていて、それが、別に間違ったことでもなければ、大体評価される。し、自分でも自分を評価できる。自分に対しては、自分の評価が最も大事。自分に恥じることをしてはいけない。自分に恥じることが無ければ、たとえ誰に何を言われようとも、何とも思う必要はない。そうはいっても、人は、評価されたいもの。せめて、一人でも二人でも、自分のことを評価してくれている、正当に評価してみてくれている家族や友人、同僚、先輩、上司などがいてくれたらそれでいいのではないか。

大衆の評価は流されやすいもの。時と場面、雰囲気に流される。でまかせやでっち上げ、勘違い、価値観の違い、とにかく誰でもいいから叩きたい・炎上させたい、自分の評価を相対的に上げるためもしくは、自分が注目を浴びないように他者を目立たせるため、標的にさせるため、など、社会では、色々な思惑が交錯する。

そんなことにいちいち、心を費やしていては、心がもったいない。

自分に恥じることが無ければ、シュッとしていたらいい。それを、真実を、自分が真実だと信じることを、だれか一人でも二人でも知っている人がいてくれたらいい。それで、十分、やっていける。

それでも苦しいときは、その場を離れたらいい。

そうして、戦場から離脱した経験が私にはあるから。離脱した先に、新しい生活があり、そちらの方が輝いていることはよくあることだから。

戦場を離脱する、という覚悟が持てれば、戦場で戦う覚悟も生まれる。戦う強さが生まれる。

手元には、常に、最終手段のカードを持っていないと、弱みに付け込まれて、中途半端な決断で、中途半端な策を打って、策士策におぼれかねない。