結局、今までの、普段の言動が大事

2022年04月28日 こころ院長ブログ

日常の、平素の言動が大事。

何のことかというと、ロシアの話からの一般論。

ロシアの言い分として、民間人の殺害などはロシアではない、ロシアのせいにするための陰謀、策略だと。

真実のほどはわからない。

武器の放棄、降伏、その他の先頭の意思を示さなければ、戦争は終了、撤退する。

そうなのかもしれない、けど、武器を置いてて手を挙げた瞬間に、拘束され、蹂躙されるかもしれない。その後、さらに占領地を拡大されたり、乗っ取られるかもしれない。

第三者には、本当のところは、わからない。ウクライナもロシアも、自分たちを悪く言うようなことは無い、そういう情報は積極的に公表しないから。

遠くからではわからない。だからこそ、今までの歴史、経緯の中で、それぞれの言動が一つ一つ、確からしいかを判断する必要がある。

結局、最期は、信用できるかどうか。ここまでに至る平素の言動に信用がおけるかどうか。

ウクライナの事は、今回の戦争が起こるまでは、それほど情報が入ってきていたわけではないのであまりわからない。ロシアについては、さすが大国、ちょいちょい日本でもニュースになってたし、隣国だから、歴史的にも関係が深い。ドーピング疑惑との期の対応は、そもそも、その前の国家ぐるみの戦略はどうだったのか、ウクライナの進行に対する大義名分のジェノサイドの確たる証拠とは何なのか、そもそも直接武力行使の前に国連の常任理事国なのだから、ジェノサイドを国連に訴えて、平和的に解決する手続きを取ったのに何も解決しないからやむなく戦争に踏み切ったのか?北方領土の占拠自体、終戦後にさらに進行して獲得したものではないのか?、2島・4島返還する話も、交換条件を引き出しつつ、何かにつけて、なかったことにする、振出しに戻る、後退するを繰り返して、そもそも返す気なんてないのに交渉条件に使っていないのか?

独裁国家、帝国主義国のように、自国内の情報統制・情報操作を協力にかけないと、国が維持できないような、なにか都合の悪いことを蓋をするようなことをしていないか。正当性があれば、ウクライナの現状を報道しても、こういう正当な理由でこうなっていると報道すればいいのではないだろうか。

というようなことは、日常生活においても言えることである。

日常の言動が、いざというときに相手の対応を替えてしまう。普段から、正直者、真摯に取り組む、一生懸命、誠実出る人は、トラブルが起こったとき、ミスを犯した時も、周囲の人は、人間だもの、そういうこともある、そこかいつも通り真摯に対応していれば、好意的にみてくれる。

しかし、普段から雑、横柄、ごまかす、ずるをする、楽をしようとする。。。などの負の要素が、周囲からも見て取れるように人は、トラブルやミスを犯したときには、それみたことか、普段からちゃんとしないからだ、因果応報だ、責任を取れ・・・・など、負の対応・評価を受け、上記と同じように、事後の対処を真摯に取り組んだとしても、場合によっては、いまさら遅いんだよ、取り繕おうとしうやがって、そんなことやって当然、こんなことになってどうしてくれるんだ、責任取れ、弁償しろ、保障しろ・・・などのつらい評価を受けることもあるだろう。

何が言いたいのかな。

普段から、我欲にとらわれずに、一生懸命、誠実に、真摯に、周囲の人のことを、気持ちを考えて、行動しておくことは、周囲の人の為にも当然なるのだけれども、いつか、自分のことも守ってくれる保険のようなものにもなりうることだよ、という事。

一時の楽や利益、金銭的なことのような小さな得を追い求めずに、一見、自分にとっては損や負担になっているかもしれないけど、それをすることで、誰かの役に立つ、誰かの負担を減らすことなどは、可能な限り快く引き受けることは、いいことだよねぇ、ってこと。