子どもの学力差は、親の経済力だけで生まれるわけではない

2021年11月22日 こころ院長ブログ

子どもの学力について、貧富の差があるためと当たり前のように言われていますが、実際そうなのでしょうか?もちろん、ある種の影響はあるのでしょう。学習塾は、月謝が高額だし、参考書も高い。でも、学習塾に行ったって、できない子はできない、できる子はできるようになる。そして、学校で一番成績がいい子が、実は、塾に行っていないってこともよくある。発展途上国では、親の経済力のために、労働力としてみなされ、学校に通えずに、学力差が生まれることがあります。でも、日本は、少なくとも中学までは、学校に通えます。学校に通っていれば、教科書があり、先生がいて、相談できる友達もいます。もう、これで、勉強する環境は十分与えられています。あとは、本人次第。塾に行こうが、行くまいが、学力を身に着け、希望する職につき、貧困から脱する手立ては、なくはない。子供には酷かもしれないが、あとは本人次第という面もある。結局は、本人がやらなきゃ、学力は身につかない。別に、昔の話がいいわけではないが、学校に行きたくても行けなかった時期も日本にはあった。本をもらってきて、雪明りやろうそくの火で労働の後にこっそり勉強していたって話も、聞く。どうなりたい、どうしたいという、強い意志があるかどうか。親のようになりたい、親のようになりたくない、お金持ちになりたい、理想を実現するためにある職に就きたい、海外に行って活躍したい、有名になりたい・・・・。その目標を早く持った子ほど、早めに勉強をする方法を身につけたりする。ただ、”親ガチャ”なんて言葉のように、すべてを運のせいにするのは好きではないが、生きていれば、運を味方につける必要がある。勉強をする意味や楽しさ、必要性などを教えてくれる大人が、周りにいてくれるだろうか?勉強する方法を教えてくれているだろうか?塾に行かなくても、普通に学校に行って、教科書で勉強して、大学に行って、仕事について、貧困から脱せられることを知っている大人が周りにいてくれるだろうか。受験戦争なんて時代から、学校に行っていても、有名中学、高校には行けない、塾に行かなければならない、有名塾に行って、トップにならなければならない、なんて傾向もあったりなかったりしていましたが、塾の先生>学校の先生ではない。塾のテキスト>学校の教科書ではない。ただ、塾と学校に対する向き合い方が、違うんだろうなと思う。学校の授業や宿題、テストなんかに対する集中力や労力の使い方と塾に対するそれと、全然違う、違った、と思います。教えてくれる、書いてある学問の答えや意味は、同じなんだもの、出所は一緒なんだもの、より集中し、労力を費やした方に成果が出るんだろうな。子供達には、中学まで、学校に通う権利と義務がある。安易に頑張って、とは言えないが、自分の好きな世界へ抜け出す道は、日本では、国が用意してくれている。貧乏=学力が低い、セレブ=学力が高い、というありもしない真実のように語られているレッテルに惑わされてはいけない。子供の可能性は無限大だ。”親ガチャ”はずれ、なんていうけれど、セレブの家に生まれたからって楽で幸せかどうかは、その子に聞いてみないとわからない。世の中でお金がすべてではない。何十億もらっていても、満たされず、脱税や献金、犯罪を犯す大人もいる、年収300万円以下でも、幸せな家庭もいっぱいある。お金は、生活に直結する部分もあるが、価値感の一つ。幸せを感じて生きる方法は、いっぱいある。モノや見た目にだけにとらわれないで世界を見て、感じられるようになったら、意外と幸せに感じることは、日常の至る所にあることに気が付けるかもしれない。初めから、ひどい親も、いるだろう、浅はかで、無責任で、無知で、自分勝手で。そんな親の元に望んで生まれてきたわけではない。それは、運なのかもしれない。けど、心の向きは、双方向。自分の心も見つめなおす必要がある。本当に、親のせいだけなんだろうか?自分の心は、親に向いていただろうか?自分が親のことを嫌えば、憎めば、その逆向きの感情が自分に返ってくる可能性がある。生まれた時からのひどい親でも変わることがある、生まれた時にはよい親でも変わることがある。悪くなったきっかけは何だったんだろうか?親も子供のころにひどい目にあっていたんだろうか?本当に和解できないんだろうか?どちらとも歩み寄らなければ、ずっと変わらない。血のつながった数少ない人間同士、仲良くなれるなら、いいな。お互いに、嫌なところはいっぱいあるだろうけど、いいところにも目を向けて見たらいいと思う。ないのかなぁ、1個も。あるんじゃないかなぁ。  それでも親の影響を受けないように、給付金よりは、大学まで国公立学校の無償化および私立でもそれと同等額の補助があればいいなと思います。