在宅医療には、想像力、想定力が必要

2024年01月14日 こころ院長ブログ

在宅医療は、医師であれば誰でもできる。

出来ると言えばできる。

が出来ることと、上手に出来ることは違う。

ちょっとした工夫や想い、想像力があるかないかでその質は変わる。

在宅にいたい。最期までいたい。最期までとは言わないが出来るだけ長くいたい。

どのようにいたい?やりたいことはない?

リスクとの駆け引きになるが、どのようなことを提供して、どのような想いを

させてあげられるか、させないであげられるか?

多くは己のリスクを軽減するために、患者さんの想いを叶えることを制限していないだろうか?

食べちゃダメ、飲食しなきゃだめ、動いちゃダメ、点滴しなきゃダメ、胃瘻にしなきゃダメ、

受診や入院しなきゃダメ、薬飲まなきゃダメ、寝なきゃダメ。。。。。

何々しなきゃ、しちゃ、だめだめだめ。。。。。。

せっかく自分の家にいるのに、入院、入所しないでいるのに、周りからとやかく制限されて、

窮屈にしていないだろうか?

リスクはもちろん受け入れてもらわないといけないけれど、そうしたいのなら、そうしたくないのなら、

自宅にいるんだし、自由に見守ってあげる、という選択肢も持っているだろうか?

患者さんを受け入れる時、診療を行っている時、その方が、今後どのような経過になる未来が

パターンとして想定されるだろうか?

それにつき、あらかじめ適時想定して、連携病院に事前情報を流しておく、こういうことが起こりうる

可能性が高いよということを本人やご家族にアナウンスしておく、そういった準備を

整えているだろうか?

起こってからの説明も大事だけど、こうなることもありうるよということを、

まぁ、神様じゃぁないから、全ては無理だけど、可能な限りのことを想定しておいて、

対応を考慮しておくことは大事。

私も、常日頃、日常の些細な、さまざまなことに対しても最悪のケースも含めてなるべく

想定しておくことを習慣付けている。

政治家の、想定外のこと、、、、というフレーズをよく聞きますが、想定しておくべきでしょ、

ということも多々あります。

想定していないこと、検討しておかなかったことが、落ち度であると、

そうなった場合は、後の先を取るために、迅速に対処すべきであるということを

感じます。

様子を見ましょう、経過観察しましょう。

その言葉の裏に、観察中に何が起こるかな、どういう可能性があるかな?、何があったら、こう

しましょうということをできるだけ細やかに想定できているかどうか?

ただ機械的に、翌朝以降に対言おうしますという対応をとっていないだろうか?

それは、待機をして責任を持って医療をしているとは言わない。

必要な時には、満を持して往診して、診察しないと。

心肺停止という事態でも、翌朝まで診察に行かない、というクリニックもある聞いたことがある。

死亡確認は医師の仕事。

エピソード的には、病死や老衰でということが明らかなのかもしれないが、

その最期を確認に行くのに、夜中だから、明日の朝行こうに行くまで待っててください、

ということが正しいことなのだろうか?

私が家族だったら、今すぐ急いで、とは言わないけれども、最期を診にきてほしいな、と

思わないだろうか?

医師が確認するまで、死亡が確定しないのだから。

死後の処置もしてもらえないのだから。

その先のことも何も進められないのだから。

そう言ったことも医師の働き方改革の範疇に入ってくるのだろうか?

ふうむ。

ガッチガチの医療サービスを24時間365日求めて仕舞えば、相当の医療従事者の配置が必要に

なり、長時間労働を強いることになる。

今後は、どこまでの医療サービスを求めるのか、ということが、日本国民全体にも

問われてくるだろう。

難しいねぇ。