働くことの大切さとお金の価値について

2023年11月27日 こころ院長ブログ

週末、子供達と話をする機会がいっぱいありました。

そこで、働くことについて議論しました。

若者の中に多かれ少なかれある、働きたくない、なんで働かなきゃいけないの?、

遊んで暮らしたり、楽して儲けたい、好きなことだけやっていたい、

趣味に没頭したい、誰かの下につきたくない、大変なことはしたくない、

単純労働や肉体労働はしたくない、華やかな仕事がしたい、、、、などなどの

イメージをできれば我が子には持ってほしくないなぁ、持っていてほしくないなぁと、

思っていました。

話をしてみると、もっとそういう感じが出てくるかと思いきや、働くことは、

以前は、子供のままで、働かないでいられたらいいなぁとは言っていましたが、

今は、自立できるかなぁと、心配になってきている様子。

なので、色々な職業について話をしました。

医師、看護師、介護士、リハビリテーション療法士など、身近な物については、

いつもは成していますが、警察、消防などのエッセンシャルワーカーや

先生、弁護士、裁判官、会社員、公務員、喫茶店やレストランの店主、シェフ、パティシエ、

ウェイター、農家、漁師、バスやタクシーの運転手、コンビニなどのバイト、、、、

多くの職業について話しました。

それに伴い、やってみたいことがいくつもあることがわかりました。

漠然と、何かしたいことがないかなぁ、と考えながら、漫然と高校受験、大学受験しても

意味がない。

何をしたいか、なんのために、高校に行かなければならないのか、大学に行かなければならないのか、

それがわかっている人は強い。

何も目標がないけど、とりあえず、評判のいい、偏差値の高い高校へ行く、大学へ行く、

それから後でやりたいことを探す、そんな子はちと弱い。

もちろん、大学に通いながら、そこで巡り合う、知りうることからやりたいことが見つかることは

たくさんある。

だが、大学に入ることが目標では、ちと残念。

人生にはその先の方が長い道のりがあるのだから。

金銭感覚は、一朝一夕には身につかない。我が家では、金銭感覚が狂わないように、幼き頃から、

気を配っていた。

よくある、親が多少金を持っているから自分で稼いだこともないのに、自分も金にゆとりがある

ように勘違いする人、ああいう大人になってほしくなかった。

我が子ながら、まっすぐ育ってくれている。

お金を稼ぐことは大変であることを知ってくれている。

コンビニのバイトをしたら、どれくらい稼げるの?という質問に、

北海道なら今なら1時間みっちり働いて、950円くらいだろうか?と話す。

すると、コンビニで働いただけで、そんなにもらえるの?

という感覚。

これは、正しいと思う。

実際コンビニの仕事は、大変だろう。時間帯にもよるが、重労働もあるし、忙しい時もあるし、

肉体労働になることもある。

でも、リスクは少ない。自らの金銭が目減りすることはない、必ず一定の予想された給料が得られる、

特別な資格を必要としない、運悪く強盗なんてことはわずかながらあるが、基本的に命を失うリスクや

事故に遭うリスクなどはない、時間労働だから本来は残業などはないはず、自宅の近所で働ける、、、。

その労働対価が時給950円。

これを、その労働でこれだけもらえるの?

という感覚は大事。

多くの人は、950円しかもらえないのか、という感覚だろう。

自分の労働の対価が950円。950円でできることは限られている。もっとくれよ、もっと評価してよと。

お年玉やお小遣いで、1000円て、わりかし、簡単に手に入る。

だからこそその950円の価値、それを稼ぐことの重み、評価、ありがたみって、わかりづらい。

働く前から、1000円ぽっち、っていう感覚だと、世の中に出て、働いて稼ぐことの大変さに

押しつぶされる可能性がある。

親は当然、16年も20年も自分より長く生きて働いている。

親が稼ぐ感覚と自分が稼ぎ始める感覚は、全然違って当たり前。

若者は、おじさんやおばさんたちが、自分たちと同じように働いているのに、多く稼ぐことに

不満を持ちがち。

でもそんなん当たり前。同一労働同一賃金の法則。

諸先輩型が、自分達と同一の労働をしているだろうか?

そのキャリア、知識、経験、技術などから生み出される、仕事の質、責任感、信頼感、、、、。

同質の仕事だろうか?

同質なら、同様の報酬をもらって当然。

だが、やはりそこには、キャリアの差があったりするのが現実。

だとしたら、その差が報酬に出てもいいのでは?

年功序列、と単純にひっくるめないで、その仕事の質において、キャリアを重ねた人の方が、

質が高くなっていることがある、多い、ということが、年功序列のように見えることがある、

という視点を持つことも大事。

話はそれましたが、色々な仕事の話、何をしたいいかによって、中卒でも、高卒でも、専門学校卒でも、

大学卒でも、大学院卒でも、留学でも、学歴なんてなんでもいい。

むしろ、やりたいことに合わせて学歴は選べばいいと話したことで、未来が少しだけ、

楽しみになったようです。

あれやこれやと、やってみたいことをいくつか口に出していました。

ジャンルは、まちまち。全部をいっぺんに目指すことは難しい。

その中で、何を選ぶかは自分次第。

それに伴い、取るべき進路も変わってくる。

自分の人生、自分が主導権を握って、選んで、舵を切ればいい。

そのためには、情報と知識が必要で、それを元に、自分で考えることが大事。

誰かに誘導されて、自身の進路を選ぶと、場合によって、先の人生で後悔したり、

大きな回り道をしてしまうことになるかもしれない。

職種に優劣、貴賤なんてない。

世のために、一生懸命、誇りを持って働ければ、それでいい。

働くことを放棄したら、国は滅ぶだろう。

若者たちは、高齢者を自分達が支えている、支えなければならないと、メディアが

煽るので、そう感じているかもしれない。

しかし実際は、今まさに人手不足の大事な産業において、若者たちがやりたくない、

つきたくないという職業において、中高年の働いている人たちが、人手不足の中、

快適な世の中の仕組みを維持するために、獅子奮迅のごとく働いて、

支えてもらっていることにあまり気がついていない

そう、若者だって、中高年の人たちに支えられているのだ。

お互いに支え合っているのだから、なんで俺たちだけが、と思う必要はない。

人手不足の産業が回らなくなってきたら、労働力不足と称して、移民を受け入れればいい、

という有識者もいるが、人手がいないわけではない。やりたくないだけ。

日本人の若者がやりたくないことを移民の諸外国人にやらせればいい、という発想は、

差別的な発想ではないのか?

と感じてしまう。

移民を受け入れることと、労働力を確保すること、これは、本来は目的としては、

別に考えないと、後々、差別問題に発展する、ストライキなどの原因となりうるのでは、

ないだろうか?