教育格差とは何か

2022年05月23日 こころ院長ブログ

教育格差というフレーズを最近よく聞く。

日本において、教育格差って、どこまであるのかな?

親の収入や学歴で、教育格差って、どこまであるのかな?

こんなすごい人の子供なのに・・・・、残念、って子もいっぱいいるし、家が貧しくても、頑張って東大に行く子もいる。

何も、大学へ行くことが教育ではない。好きなことで生計を立てることもいいだろう。高校、大学なんて行かないで、起業して成功する子もいる。芸術や芸能・スポーツの世界に行く子もいる。

例えば、歌舞伎役者や狂言師、なんだか流の茶道や華道家とかになると、何々家の子供っていう血筋が必要だったりすることもあるようなので、そういった家に生まれたこと、生まれていないことによる格差はあるのかもしれない。

だが、いわゆる一般的にいう学問における教育という場面では、日本では、全員が小学~中学校まで通えることになっている。先生に授業をしてもらい、わからないことは無料で相談、質問できる。教科書もある。勉強しようと思えば、いくらでもできる環境である。ここにおいて、個々人のセンスや能力のことは、格差の対象にはならない。ようは、機会が平等に与えられているのかどうかということ。そういう観点から行けば、教育を受ける機会においては均等である。

そこからさらに塾に行ったりや家庭教師を付けたりは、格差の問題とは別で、学校の勉強では足りないよっていう子が、学校以外で勉強するという意味合い。別に、塾や家庭教師が無ければ、勉強ができないわけではなく、自習で大学まで入る子もいっぱいいる。

親が自分の時間を割いて子供の勉強を見てあげる家もいっぱいある。これに関しては、アスリートのそれと同じ。アスリートの親が、自分が経験者かどうかは関係なく、独学でトレーニングを見てあげたり、手伝ったり、送り迎えしたり、一生懸命育て上げるのと同じで、勉強がわからない子、もっとやりたい子に、親が自分を犠牲にしてでも見てあげる、協力するというのと同じ。そでができないから、ジムや教室、クラブチームに入れたり、塾に通わせたり、家庭教師を付けたりする。これについては、標準的な機会均等のプラスアルファを求める親子が、自らの財産や犠牲を払ってでも、子を育てたいという範疇であり、教育格差とはまた別なのではないか?

教育ってどこまでのことを求めているのか?いわゆる一流大学に入るってこと?これって、そういった大学には、そもそも合格人数が限られているので、必ず、受かること落ちる子がいる。しょうがない。だけど、一流大学と呼ばれるところに入って、何をしたいの?大学に行って、そしてどうするの?そんなことが教育なの?何をしたいから、どこの大学に行きたい、そこで何をして、結果として、何を成し遂げたいのか。それが大事。今時、大学に入ったからと言って就職が決まるようなところは、大した会社ではないだろう。通ってた大学なんて、社会に出たら、ただの肩書の一つにもならん。要は、その人が、どんな仕事ができるかが大事。中学から先の勉強は、もう国で機会均等にする必要なんてない。中学卒業したら、もう社会に出て働き始めたり、修行をしたり、起業したりする子が出てくるのだから。高校くらいは出た方がいい、みたいな大人が勝手に評価するから、大学出ている方がいい、一流大学の方がいいみたいな評価を会社の面接官がするから、そこにこだわって、塾や家庭教師が必要、そこにお金がかけられる人とそうでない人で、格差が生まれる、なんて考えになるのではないかな?

塾へ行っても家庭教師を付けても、やる気が無ければ伸びないし、クラブチームに入っても、プロの選手になれるわけではない。単純に、東大に入れればいいというレベルの話であれば、別に、塾も家庭教師もいらない。ただ、学校の勉強をして、しっかり基本をマスターすればいいんじゃないかな?今の時代、インターネットのおかげで、いくらでも情報は入る。応用練習とかも、別に参考書買わなくても色々調べられそう。参考書位、2~3冊買ったって、それほど高額ではない。図書館や図書室だって、そのためにあるんだし。本当に、すべての努力をしても埋まらない格差は、政治で何とかするしかない。けど、本当に、本人が、親が、いわゆる教育格差を埋める為に、最大限の努力をしているのだろうか?結構、日本の教育システムは恵まれている方だと思うのだけれども。

識字率や計算力、その他の標準的な知識を身に着けている日本人は、以前から世界に比べて相当に多い。それは、教育の機会が比較的均等であることを意味するのではないか?少なくとも、メディアで見かけるような、学校に通えずに水汲みをさせられていたり、戦争に加担させられていたり、通えるけど片道2時間3時間の山道や川下り・崖渡りなどをしなければならないような子供たちのような過酷な状況にはおかれていない。学校へ行くことは当たり前になっている。むしろ、色々な心のストレスなどにより、不登校になっている子も多いとか。

別に、高校より先の勉強なんて、あってもなくてもどっちでもいい。必要な人はしたらいい。必要ない人はしなくてもいいのでは?

ただ、プロ野球選手や歌手、伝統芸能の人、画家、その他の才能ある人達が、売れたらすごく儲かるのであれば、学業で才能を発揮した人たちもまた、儲かってもいいんじゃないか?資本主義だから、今は、どの分野でも頑張った人が儲かる、うまくいかなかった人や頑張らなかった人は儲からない、という格差は、生まれて仕方がない。儲かる人とそうでない人が出ちゃうのが資本主義。反するのは、一部の特権階級が権力と資金を牛耳り残りの大多数は平等に貧しいパターン、王様とその一族が巨万の富を得てその一部を国民に還元する国々、王様も国民もつつましく幸せに暮らしている国、などなどがある。今後、頑張った人はそれなりに儲かるけど、他の人もそれなりの生活で平等に暮らせる世界のシステムって作られてくるのかな。単純に、生活をすべて平等にするだけでは、平等にはならない。一生懸命働いても適当にやっても働かなくても、危険な仕事でも楽な仕事でも、みーんな同じ生活できるなら、だれも一生懸命、危険な仕事をしたがらないだろう。

平等って何だろうね。格差って何だろうね。差がつかなくなったら、モチベーションって保てるのかな?

個性の時代、多様性の時代って言いながら、そういったところではみんな一緒・・・って、またちょっと違うんじゃないかな?

昭和の人だから、もう化石みたいな古い人間なのかもしれないけど、やっぱり、頑張った人が報われる、そういった世の中がいいなと思う。

人は、頑張る人がいると、寄っかかって楽をしようとする人が往々にして発生する。そういったときに、別に後者を罰しなくてもいいけど、前者が評価されて、報われる世の中であってほしい。

これもあくまで、私見なので、異論・反論は多々あるかと思いますが、ただのたわごとと聞き流して、読み流してください。