常識とは、相対的なものでは

2022年07月20日 こころ院長ブログ

常識、マナー、しきたり・・・。

色々なものに縛られる。

世間の目、社会の目、社会の和、自意識・・・、色々なものに取り囲まれいてる。

常識的に。。。とよく言いますが、常識とは?

自分の常識 ≠ 他人の常識・世界の常識 であることを認識すべき。

自分の行動に責任を持つ、自信を持つ。

もしそれが、世間の常識と反していたら?

冷静に、客観的に考えてみて判断すべき。

自分の常識が間違っていれば、修正すればいい。

周りの常識が別に正しいわけでなければ、別に治さなくてもいい。それが個性だもの。

物の良し悪しは、相対的な面が多い。

大勢の人の意見が、正しいとは限らない。

視点によっては、善悪は変わる。

やるべきことは、犠牲を払ってもやる必要があるときもあるし、そんなに犠牲を払ってまでやらなくてもいいこともある。

自分に自信がある人は、自己中心的な人は、自分の常識が正しいと思いがちだし、自分自身が無い人は、他者に迎合して、自分の常識が間違っていると思いがち。

どちらもよくない。

あくまでも、相対的な価値観として、その場面場面でどちらの方がより良いかを取捨選択しなければならい。

どうしても相いれない場合は、話し合いでも解決しない。そういうときは、どちらかを選ぶかどちらも選ばないか、選択しなければならい。

いずれにせよ、選択したならば、その決断に対して、各々が自己責任を負うべきである。

他者に責任を転嫁してはいけない。

恨み、復讐、暴食、戦争、略奪、非難、中傷、嫌悪・・・、負の連鎖は、何も生み出さない。奪い合わない事、許しあう事、認め合う事、尊重しあう事でしか平和な世界は訪れない。

己の不幸を理由に他者を迫害、殺傷、搾取することは許されない。どんな理由であれ、同情する余地のある過去があったにせよ、犯行を酌量する余地はない。個人の不幸や恨み、妬みなどを個々人の暴力で解決していいということは、民主主義では認められない。あくまでも裁判、法律で裁かなければならない。犯行を実行した時点で、すべてに罪が背負わされることになる。

犯行に及んだ相手の家族や友人、その他の周囲の人の心情に、少しも配慮しなかった犯行に対して、情状酌量の余地はない。とおもう。

その結果として、おそらくは、今後の日本国の経済、政治、福祉、国際関係に多大なマイナス効果を生むであろう結果にを引き起こしたことの罪は、かなり重い、そう感じます。